個人的な事ですが、忘れないうちに書いておきます。
朝鮮から帰ってきた父は、ビロードの服を着ていた。
回りの子供はまだ絣の着物を着てる子もいた時代だった。
朝鮮でいい暮らしをしていた父と長女は、農作業が嫌いで手伝う事が少なかった。
妹達にやらせいつの間にかいなくなっていた。
私は一生懸命農作業している父の姿しか見た事なかったが、小さい頃は農作業は好きではなかったようだ。
お坊ちゃん生活から農作業なんて嫌だったのでしょう。
私達はよく手伝いさせられたけどね。
そんな事も聞けて新鮮だった。
父は志願して海軍に入った。
妹である叔母は海軍の制服をもらった事があるそうだ。
生地が丈夫なのでそれで制服を作ってもらったそうだ。
父はデッキから落ちてケガをした事があり野戦病院に入院したそうだ。
そこで手当てくれた看護師さんと仲良くなったらしい。
その方は他県の方でお母さんと二人暮らしだったようだ。
しかし父親がよそ者との結婚には反対だったらしく、結婚はしなかった。
もしその方と結婚していたら私はいなかったんだな。
そんな事も始めて知った。
そのせいか叔母である妹に「看護師になれ」と言っていたそうだ。
私も言われた事がある。資格のある看護師か美容師になれとその時は手に職があれば助かるからと言っていた。
もしかして好きだった看護師さんの事も心の片隅でよぎっていたのかな?
そんな父の恋バナとか聞けて面白かった。
父から戦争の話を聞いた事といえば駆逐艦に乗っていたという事くらいしか覚えていない。
戦争が終わったあとは、歌や踊りがはやっていたそうだ。
村での祭りも多かったようだ。
父は人気者だったらしい。
叔母の話しによるとひょうきんで面白かったのでモテていたそうだ。
踊りもわけのわからない踊りを踊っていたらしい。
確かに焼酎が入ると楽しそうに即興で踊っていた。
笑顔で気持ち良さそうに踊っている姿が思い出される。
また祖父は長男なので家を継ぐのが普通だが、嫁と子供を残して次男が亡くなったので本家で面倒みる事になった。
そのため長男である祖父は親から分家してくれと言われ、近くに家を建てたようだ。
私はこの家で育った。
私を産んでくれた母は「歌子さん」
名前の通り歌や踊りがとても上手く、歌子さんと言えば有名だったらしい。
歌子さんは家庭科の先生もしていたようだ。
歌子さんの父は代書をしていた。
代書というと今の行政書士。
父と歌子さんはお見合いだったようだ。
しかし歌子さんは私が2歳の時に腸の病気で亡くなった。
私は歌子さんの事は何も覚えていない。
兄は6歳だった。
幼子二人残して無念だったろうと思う。
今なら治る病だったのではないだろうか。
歌子さんの亡くなった37歳の年齢を越えた時、私はほっとした。
それからまもなくして父は再婚した。
そして私は母幸子さんに育ててもらったのです。
幸子さんは今年1月に亡くなりました。
話しが前後したりしてわかりにくいかと思いますが、叔母から聞いた事書き留めておこうと思いました。
私の知らない父の若い頃の話しとか貴重な話しを色々聞けて有意義な時でした。
また後で読み返す時もあろう。これにておしまいです。
おつきあい有難うございました。
スポレックの後に寄った都市農業センターのコスモスとイチョウの木。
コスモス満開でした。