本と旅と映画

のんびり気ままに…

モンブランに釣られて一人で出掛けてきた。映画アムステルダムはいまいちだった。

ラインで友達登録しているパスタ屋さんから定期的にラインが届きます。

2週間に一度パスタの紹介と無料クーポンが届きます。

今月は自家製モンブランでした。

食いしん坊の私はこのモンブランを食べたくて、ランチに行ってきました。

なにせタダで食べられるので。

お店は11時オープンでした。

10分前に着いたのでお店の前でスタンバイ。

開店と同時にお店に入り注文。

さすがにモンブランだけ食べる訳にはいかないので、パスタを注文しました。

カウンターがあるので一人でも平気です。

以前は一人でお店に入るのは抵抗ありましたが、慣れてきました。

カウンターがあったりとか、一人でも入りやすいお店を見つけました。

おばばも大人になりました。

 

意外と一人で来てる人も多いですよね。

スマホ見たり、雑誌みたりしてくつろげます。

たまに近くに人がいると、聞きたくなくても聞こえてくるので人の会話を聞いてしまう事もしばしば。

会話からこの人絵が好きなんだとか、先生してるのかなとか想像しちゃいます。

 

11時半にはランチを食べ終わり、モンブランまで頂きました。

モンブランに釣られて来たけれど、味はそこそこでした。

それから久しぶりに映画を見てきました。

今日公開の「アムステルダム

ロバートデニーロとかクイーンのフレディマーキュリー役の役者さんとか有名どころが多数出てたみたいですが、名前まではわからない。

豪華俳優と「ありえないけど、ほぼ実話」というキャッチコピーに釣られて見たけれど

内容はよくわからなかった(笑)

そして途中寝そうになったりした。

思っていたより面白くなかったのが感想です。

ブラックユーモアと事実となんかこんがらがっていたので、もっとスマートにどちらかだけだったらよかったかも。

会話が多いので、吹き替え版を見たのは正解だけどそれでもよくわからなかった。

理解力が乏しいおばばだ。

アメリカでナチスが暗躍してきてる時の話しなのか?

第一次世界大戦後の話しなので、あれから最後アムステルダムに行ってもひどい目に合うのではないのか?と思った。

もちょと調べてから見たらよかった。

 

おつきあい有難うございました。

 

 

ファミリーヒストリー③ 父と母。

個人的な事ですが、忘れないうちに書いておきます。

朝鮮から帰ってきた父は、ビロードの服を着ていた。

回りの子供はまだ絣の着物を着てる子もいた時代だった。

朝鮮でいい暮らしをしていた父と長女は、農作業が嫌いで手伝う事が少なかった。

妹達にやらせいつの間にかいなくなっていた。

私は一生懸命農作業している父の姿しか見た事なかったが、小さい頃は農作業は好きではなかったようだ。

お坊ちゃん生活から農作業なんて嫌だったのでしょう。

私達はよく手伝いさせられたけどね。

そんな事も聞けて新鮮だった。

 

父は志願して海軍に入った。

妹である叔母は海軍の制服をもらった事があるそうだ。

生地が丈夫なのでそれで制服を作ってもらったそうだ。

 

父はデッキから落ちてケガをした事があり野戦病院に入院したそうだ。

そこで手当てくれた看護師さんと仲良くなったらしい。

その方は他県の方でお母さんと二人暮らしだったようだ。

しかし父親がよそ者との結婚には反対だったらしく、結婚はしなかった。

もしその方と結婚していたら私はいなかったんだな。

そんな事も始めて知った。

そのせいか叔母である妹に「看護師になれ」と言っていたそうだ。

私も言われた事がある。資格のある看護師か美容師になれとその時は手に職があれば助かるからと言っていた。

もしかして好きだった看護師さんの事も心の片隅でよぎっていたのかな?

そんな父の恋バナとか聞けて面白かった。

父から戦争の話を聞いた事といえば駆逐艦に乗っていたという事くらいしか覚えていない。

 

戦争が終わったあとは、歌や踊りがはやっていたそうだ。

村での祭りも多かったようだ。

父は人気者だったらしい。

叔母の話しによるとひょうきんで面白かったのでモテていたそうだ。

踊りもわけのわからない踊りを踊っていたらしい。

確かに焼酎が入ると楽しそうに即興で踊っていた。

笑顔で気持ち良さそうに踊っている姿が思い出される。

 

また祖父は長男なので家を継ぐのが普通だが、嫁と子供を残して次男が亡くなったので本家で面倒みる事になった。

そのため長男である祖父は親から分家してくれと言われ、近くに家を建てたようだ。

私はこの家で育った。

 

私を産んでくれた母は「歌子さん」

名前の通り歌や踊りがとても上手く、歌子さんと言えば有名だったらしい。

歌子さんは家庭科の先生もしていたようだ。

歌子さんの父は代書をしていた。

代書というと今の行政書士

父と歌子さんはお見合いだったようだ。

しかし歌子さんは私が2歳の時に腸の病気で亡くなった。

私は歌子さんの事は何も覚えていない。

兄は6歳だった。 

幼子二人残して無念だったろうと思う。

今なら治る病だったのではないだろうか。

歌子さんの亡くなった37歳の年齢を越えた時、私はほっとした。

 

それからまもなくして父は再婚した。

そして私は母幸子さんに育ててもらったのです。

幸子さんは今年1月に亡くなりました。

 

話しが前後したりしてわかりにくいかと思いますが、叔母から聞いた事書き留めておこうと思いました。

私の知らない父の若い頃の話しとか貴重な話しを色々聞けて有意義な時でした。

また後で読み返す時もあろう。これにておしまいです。

 

おつきあい有難うございました。

 

スポレックの後に寄った都市農業センターのコスモスとイチョウの木。

コスモス満開でした。

 

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ファミリーヒストリー② 朝鮮で生まれた父の事から時代背景調べたら日韓関係へと繋がる。

昨日からの続きです。

祖父は朝鮮で警察官をしていた。

長男である父と長女は朝鮮で生まれた。

朝鮮での暮らしはお手伝いさんがいる裕福な暮らしだった。

昭和7年生まれの叔母は鹿児島で生まれたらしい。

何年に朝鮮に渡ったのかはわからないが、昭和7年には引き上げてきている。

 

何故朝鮮に渡ったのか?

時代背景が気になったので調べてみました。

日露戦争後の話しになります。

1910年(明治43年大日本帝国大韓帝国を併合し、統治下に置いた。

日本が第二次世界大戦に敗れるまでの35年間、朝鮮半島は日本の支配下にあった。

韓国併合または日韓併合、朝鮮併合と言う。植民地にしていた。

今でも日韓関係がこじれている原因はこの辺りの事が関係しているようだ。

おばばは難しい事はよくわからないが、それなりにまとめると

韓国側の言い分は

韓国併合の目的は朝鮮半島の富の収奪だった。

朝鮮の民衆は併合に反対だった。

朝鮮は植民地化によりあらゆる搾取を受けた。

など事実かどうかわからないが主張している。

そして従軍慰安婦や徴用工問題は現代まで続いている。

日本側は

身分開放政策をし、身分のなかった人々にも名前を与え、戸籍登録した。

学校教育制度を整備し、4200の小学校を建設した。

日本同様の経済水準に引き上げる事を目指していた。

道路や鉄道、上下水道、電気、病院、学校、工場などの近代的なインフラや建物が整備され、韓国は経済的に発展した。

 

夫も韓国の経済的発展は日本が礎を築いたのだと言う。

多額の賠償金も支払っているのに、いつまでも慰安婦問題など取り上げてくると韓国側の主張には否定的だ。

私はどっちがどうなのかよくわからない。

でもどこからこの問題になったのかはわかった。

 

憲兵と普通警察を一体化した「憲兵警察制度」を採用し、韓国全土に日本軍や警察を配置した。

九州から玄界灘を渡り移住した人が多かったらしい。

独立を求める運動や日本支配への抵抗活動に対して、厳しい取り締まりをしていたのだ。

 

その後1919年3月1日(三・一運動大日本帝国からの独立運動が起きる。

日本と真っ向から戦っても勝てないから、朝鮮から声を上げることで日本の国際的地位を脅かそう!そうすれば朝鮮独立のチャンスが生まれるはずと考えたようだ。

しかし朝鮮人が期待した外国からの援助もなく、独立運動は失敗する。

多くの死者や負傷者が出たようだ。

これを機に憲兵政治を廃止し文化政治としていく。

軍人が警察を兼ねる制度を廃止し、普通の警察にする。

独立運動の後13年後1932年(昭和7年)には祖父達は引き上げてきている。

独立運動前に行っていたのではと思っていたが、年齢からすると独立運動後のようだ。

独立運動のあとは大規模な反乱はなかったようなので、落ち着いていたのかも。

 

こんな記述も見つけた。

日本は、朝鮮をロシアに対抗する国防上の需要拠点とした。

また、朝鮮のマーケットに日本企業が参入することで、日本の経済発展を目指した。

土地を取られたり、朝鮮産の商品が売れなかったりとか不満をもつ人達もいたのだ。

 

日本は韓国の経済発展に寄与したのは確かだが、目的が日本の為だったんだよね。

やはり人んちに攻めて行くのはよくないと思う。

今でもあちこちで争いが起きてる困ったもんだ。

血を流すのは見たくない。

ファミリーヒストリーを書くと戦争は避けて通れないもんね。

 

歴史の勉強になりました。

そして祖父が朝鮮に渡った背景もわかりました。

 

写真は今日作った抹茶に小豆入りパンと奥はりんご甘煮入りアップルパン。

冷凍保存のお餅によもぎを入れたよもぎ餅。

 


長くなりましたが、おつきあい有難うございました。

 

pannsuki.hatenablog.jp

 

①ファミリーヒストリー 18歳で亡くなった叔父

父の命日、ローゼルの花を手向けてきました。

石碑に刻まれたご先祖様の中に父の弟の名前があった。

享年18歳サイパンにて戦死と刻まれている。

そして軍属と書いてある。

若くで亡くなった叔父さんだ。

優しそうなお顔の遺影しか知らない。

どんな人だったのだろうか?

もっと知りたいと思った。

近くに住んでいる叔母なら知っているはず。昔の事をよく覚えていて話してくれる。

父の妹で89歳だが、とてもしっかりしている。

 

訪ねると快く迎えてくれた。

叔父の事を聞いてみた。

叔母より6歳上の兄で小学生の頃一緒に草刈りに行った事を覚えているそうだ。

なんでも母より聞いた話だが18歳の時、召集令状がきて佐世保に行ったそうだ。

そしてサイパンに渡る前、両親が呼び寄せられて佐世保に会いに行ったのが最後になったらしい。

そしてサイパンに到着後すぐに襲撃されて亡くなったとの事。

なんとか生き延びた人が教えてくれたそうだ。

今のように情報が発達していない時代、近くまで米兵が来ているのがわかっていなかったようです。

サイパンに降り立ちすぐだったようだ。

無念だったろうな。

 

ところで軍属とはなんぞや。

ちょっと調べてみました。

軍人意外で軍隊に所属する者。

一般事務、建物の建設、車両や物資、備品等の補給、管理など直接戦闘に関与しない雑役に従事するとあった。

叔父が何をしていたがわからないが、軍人ではなかったのでまさか行ってすぐ撃たれるなんて思ってもいなかっただろう。

昭和19年7月7日死亡と彫られている。

 

7月9日にアメリカ軍はサイパン島占領を宣言している。

戦況が悪化している中でのサイパン行き、軍もわかっていたのだろう。

生きて帰れない事を。

そして両親を呼び寄せ会わせたのでしょう。

という事は本人もわかっていたのか。

まだ18歳辛かったろうな。

サイパン島玉砕。

死体の山だったのだろう。遺骨もない。

 

叔父の事を知れてよかった。

そして叔母から若い頃の父の事や母の事なども聞く事が出来ました。

私事ですが、忘れないように記しておこうと思います。

 

地元のお洒落なカフェで一人ラーメン、デザートランチ。

ラーメンにデザート付きは始めてだな。美味し!

辛い話しなのに幸せなおばばだ。

 

おつきあい有難うございました。

定年後の旅行。体力、気力があるうちに辞めないと行けなくなります。

朝、北海道旅行中の友より「帯広から足寄を通り網走に泊まり今日は稚内に行く予定。行ってきます。」とラインが届いた。

ご主人と二人車で旅立ってから、3週間目だ。

地名は聞いた事あるけど、行ったことのない私は場所すらわからない。

いったいどの辺なのか地図で確認してみた。

いやはや北の端ではないか。

南の端から北の端までよく走ったものだ。

高速には乗らず地道で行くと言っていた。

しかも70代のご主人が一人で運転している。

凄いわ、元気だね。

しかも3回目の旅行です。

運転好きでないと行けないよね。それにそんなに長期間の旅疲れないのかな。

先日行った2泊3日の長野旅行のあとはすっかり疲れて、動けず寝込んでいた私だ。

長期間の旅行に行ったことのない私にはわからない。

友に「疲れてないか」と尋ねると「遊ぶことなら元気だよ~ご飯も作らなくていいし」と返事がきた。

そうか、確かにあちこち行けてその土地土地の美味しいの食べて楽しいのかもね。

 

二人とも定年して老後あちこち旅行して楽しんでいる様子。

羨ましいなぁ〜

旅行好きの私もあちこち行きたいよ。

せめて北海道だけでいいから。

格安飛行機で北海道まで行き、レンタカー借りて回ってみたいな。

それともツアーでもいいか。

最低でも1週間位はいたい。

でも夫はまだ働いている。

夫に1週間位休み取れないかと尋ねると「そんな休んだら首になるわ」と言われた。

それもまた困るな。

いったい何歳まで働くのだろう?

働けるうちは働いてもらいたいが‥‥

働けなくなった時は旅行にも行けないのではないか?

旅行に行く気力、体力があるうちに、動けるうちにやめないと。

そう考えると複雑だ。

 

辞めて家で暇を持て余していられるのも困る。

かといってあちこち旅行するほどの余裕もない。

 

長期間の旅行は無理だけど、2泊3日位の旅行かな。

旅行好きの私はこんな本を買いました。

地球の歩き方「日本」

日本全国見どころや美味しい物が盛りだくさんです。

おつきあい有難うございました。

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感想(11件)

 

ジャズフェス行って来ました。やっぱ音楽はいいね。

午前中は畑仕事。

こぶ高菜、白菜、サニーレタス、スナップエンドウなどをちゃちゃと植え付け。

お昼ご飯食べてモンペからワイドパンツに着替えてレッツゴー。

鹿児島一番の繁華街天文館へ。

 

今年もやってきました。

ジャズフェス♫

天文館公園へ着くと沢山の人がジャズを聞いていました。

出店もあり賑わっています。

野外コンサートなので芝生の上に座り聞きます。

私達も空いてる場所にシートを敷き、飲み物やつまみを用意して聞きました。

 

昼間はめちゃめちゃ暑かった。

日傘に帽子が役立ちました。

夕方5時位になると日陰になり、心地良い風が吹き気持ちよかったです。

 

若い人ももちろんいましたが、客層で一番多かったのはシニアの男性だったような気がします。

国内外で活躍しているジャズミュージシャンが演奏します。

こちらも若手からベテランまでセッションし楽しませてくれます。

ベテランミュージシャンは渋く重みがあります。

最高齢89歳のギタリスト。お歳を聞いてビックリ!

とても若々しく姿勢もよかったです。

最年少は小学生のリトルチェリーズ。

全国大会で何度か優勝したことのあるジャズバンドです。

スイングジャズなのでノリノリです。

アンコールにも応えてくれてラストをかざってくれました。

とても楽しかったです。

昨年は屋内でしたが、今年は屋外2ヶ所での開催でした。

このジャズフェス無料なんですよね。

太っ腹です。

今年は募金箱にお金入れてきました。

 

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帰ってきたらBSで昭和の歌の特集やっていました。

順子とかジョニィへの伝言懐かしい!

聞きながら書いてます。

みんな若かったよね。

昭和の歌が終わった後はなんとクィーンやってます。

これまで見ようと。

今日は音楽の日でした。

 

おつきあい有難うございました。

 

味噌作り続き② 麹の花が咲きました。

穏やかな秋晴れの日。

山とか登ったら気持ち良さそう。どこか行きたいなぁと思いながら家の中。

午前中はパン作り。

ベーコン、玉ねぎ、ししとう入れてマヨネーズのせました。

 

午後から麹のいい香りがしてきました。

天気もよく温かいので早いようです。

米袋の中をのぞいてみると麦に麹がついています。

白い麹の花が咲いています。

麹がついてくるとほっとします。

 

夕方大豆と塩と混ぜ合わせしました。

この作業が一番大変です。

タライの中で混ぜ合わせます。

 

混ぜ混ぜしたら丸い団子を作り、樽の中にたたきつけながら入れていきます。

空気を抜く為のようですが、ビシッとたたきつけると気持ちがスカッとします。

ストレス発散になります。

そしてラップをして重しをして春まで待ちます。

美味しいお味噌が出来ますように。

これで味噌作り終わりました。

 

おつきあい有難うございました。

 

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